<中国、大連の旅>当校の通訳上級クラスの生徒さんが、新潟県とも関係の深い、遼寧省大連市を昨年末、訪れました。今回のブログは、その折の紀行記です。

1997年3月に新潟県は、県の経済界及び関係自治体の協力を得て、中国における新潟県唯一の経済代表事務所を設立しました。その場所が、大連です!!!

<大連紀行記>

新潟空港から関西空港へ移動し、12月28日から31日まで三泊四日で大連に行ってきました。10年以上前に西安や上海、北京には行ったことがあったので、関西空港から2時間強の直行便で到着する大都市大連を選びました。

人口約600万人、中心部の道路は片道四車線、世界中の車が走っていました。

ガイドさんによると、最近はまとまったお金ができたらまず車を購入し、次に家を購入する傾向だと話していました。大連は坂道が多いので自転車は目にしません。元々は小さな漁村から始まり、都市としては100年ちょっとの比較的若い都市なのだそうです。

宿泊したホテルの窓からの景色です。

周囲にはホテル、銀行、オフィスビル、高級ブランド商業施設などが ありました。

中山広場にある看板。市中心部の道路はここから放射状に延びています。帝政ロシア時代に不凍港を求めてこの地がロシア租借地となり、

その後日露戦争を経て日本統治時代に建設された欧風建築物が立っています。それらは現在も政府機関や金融機関などとして利用されています。

中国銀行大連分行(旧横浜正金原稿大連支店)
大連賓館(旧大和ホテル)老朽化のため内部改装工事が予定されており、現在は一階のロビーにあたるところだけ見学 できます。
大連賓館の一階ロビー内部

翌日、ガイドさんに連れられ旅順観光に出かけました。東鶏冠山北堡塁。日露戦争の激戦地の1つ。コンクリートでできたロシア側防御要塞跡。

どこからでも敵の動きがわかるように、山の木を切り禿山にしてロシア側は大きな要塞を作りました。

旅順博物館。中国国内外から収集した青銅器、磁器、仏像等が 展示されています。

二〇三高地。日露戦争最大の激戦地。あまりにも激しい戦いのため、山の高さが6mほど削れてしまい、標高が203mとなりその名が付いているそうです。中央は「爾霊山」と書いてある弾丸型の慰霊碑です。日露戦争後に乃木将軍が建立したものです。

途中まで車で行き、最後は急な坂道を息を切らしながら登りました。

白玉山塔のある山頂から眺める旅順港。中央の湾入口は90m、深さ60mとのこと。

その翌日は、大連市内観光。この日は朝の気温が-9℃、最高が-5℃。

大陸側から前夜冷気がやってきたとガイドさんの説明。ここは南山に残る旧日本人街の一部。現在は国が管理し老朽化しているが、住宅として数世帯入っている場所もあるそうです。満州鉄道関連の役員層がここから歩いて近くの満鉄本社に通っていたとのことです。

ロシア人街で見かけた教会。あまりの寒さに観光客はほとんどいませんでしたが、 夏はロシアからも旅行者がたくさん来るそうです。

広場のモニュメント。1899年から1999年の大連健市100年記念のモニュメントで、 当時の市民二千人の足跡があります。纏足をした人のものもありました。

ガイドさんの「司馬遼太郎の『坂の上の雲』はお読みになりましたか?」という質問から始まった大連、旅順の旅行でした。恥ずかしいことに読まずに行ってしまいました。近代日本史がすぐそこにある旅でした。戦後大陸にいた日本人が日本に戻る際、多くが大連港から舞鶴や長崎へと帰国したそうです。

当時は、乗船する際には命以外を持参することを禁じられて日本に戻ったそうです。

大連から旅順に車で向かう際、「ここが今ソフトウェアの企業が集まっている地区で、日本からの視察も沢山あります。」という地区を通りました。また、大連郊外には別荘用の高層マンションが何棟も建てられていました。どんどん発展する中国を見ることができた旅でもありました。

END